http://www.tackns.net/mixed/kateiwo_tanoshimu.htmlへのコメントです。
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No.1 そもそも さんのコメント:
  例えば外国語の習得「過程」で、Chapter毎に設定された「目標」がその「過程」に於いて更なる「目標」に進むための一段階であるように、ある主体が行う事柄が時間とともに変化してゆくその「過程」の中には、不断に設定されうる「結果」が含まれると認識する方が現実に即しているのではないのか?
No.2 無冠の患者同盟 さんのコメント:
フルコースの宴席で、のどに詰まらせないだろうか、フォークを目に突き刺して怪我をしないだろうか、ワインでむせないだろうか、食あたりしないだろうか、食べ過ぎて戻さないだろうか、途中で屁をひって恥をかかないだろうか、支払いは大丈夫だろうか、云々と心配していたら折角のディナーの味がわからないだろう。そんなことは心配したって仕方がない。食事の楽しみはその過程を楽しむものなのである。
No.3 そもそも さんのコメント:
このトピックの主旨は「結果・過程」なのであって、「心配・過程」を問題にしているのではない。よって、この主旨を論証するために提出された上述の「例」(即ちNo.2)には認識上の逸脱がある。
No.4 匿名希望 さんのコメント:
表題を「心配ではなく、過程を楽しめ」に変更しろ!
No.5 無冠のカラオケ魔 さんのコメント:
フルコースの宴席で、最後まで美味しく食べられるだろうか、食べたあと太らないだろうか、癌発生物質を食して居なかっただろうか、あと食あたりしないだろうか、ポロニウムが入っていないだろうか、支払いに偽札は混じらなかっただろうか、云々と結果の心配をしていたら折角のディナーが楽しくないだろう。あとのことは心配したって仕方がない。食事の楽しみはその過程を楽しむものなのである。
No.6 そもそも さんのコメント:
No.5は日本語を知らない「エセ思想家」と全く同じ思考法でコメントをしている。No.5が先に説明するべきことは:「結果と過程」の関係を論じるのに、何故「心配」という概念だけを引っ張り出してこなくてはならないのか?ということである。「過程」という概念を「心配」と解釈しなくてはならない理由が、日本語の中に存在していたということを私は知らない・・・。No.4が主張するように、議題を「心配と結果」に変更せよ!
No.7 背徳の賢者・ルオン さんのコメント:
 我が友人が、最近自転車を始められました。自転車と言ってもMTBで、里山を駆け巡るのだそうだが、目的はダイエットと仰っておられましたが、今現在はその風を切って走ることが非常に楽しいと、そう仰っておられました。
 彼の場合、結果と過程の両方を楽しんでおられる様子、まこと羨ましい限りにございます。

 さて、これに関して申し上げますれば、楽しみ方なんぞ、人それぞれにございます。狂言者Tのような、奈落の底にいらっしゃる方には人生を諭すことなど、到底かなわぬ夢物語にございましょうな。
No.8 さんのコメント:
現在は極端な結果主義だ。