http://www.tackns.net/sub/kokugo.htmlへのコメントです。
【コメント全表示について】
試験的に設置しました。
・古い順に並んでいます。2004/11/5以前に投稿されたコメントは対象外です。
・ブラウザのボタンで戻って下さい。
※[編集][削除]ボタンを利用するには、該当記事の削除キーをここに入力して下さい。 削除キー:
No.7 匿名希望 さんのコメント:
高校の国語の先生の授業はよかった。
一般的に正解だという答えではなくても、自分の考えを述べるということに重点を置いていた。
今の小学校の国語の授業をみたことがありますか?
物語を読んで、それがなにを意味しているか・・・ということはもちろん問題になりますが、みんな意見を出し合い、どんどん発表していきます。そして 結果 これだ!とは決め付けません。少数意見も大切にされます。昔の国語の授業と今のそれとでは まったく内容が違いますよ
No.8 正しい答えは一つでない さんのコメント:
このトピックのとおり、考え方によっていくつも正解がある場合でも「答えは一つである」と押し付けることがおかしいのである。
No.9 宏一郎 さんのコメント:
国語の衰退を憂う会シンパの立場からひとこと。
国語、つまり一国の言語は学問全体の根幹であって、これが一国の文化を支えているのです。科学論文を書くのもまず日本語がしっかり身についていなければなりません。哲学論文ではなおのこと、言葉で考えるわけですから言語能力の重要性はいやますでしょう。民間会社にあっても、上司に事業計画書を提出するときに説得力のない日本語では理解されないでしょう。もちろん上司も読解力が必要です。
国語の現行授業の内容については賛否あるかもしれませんが、古典、詩文の読解力向上のためにさまざまな工夫がなされてしかるべきです。まちがっても英語を小学校から教えようという動きに連動して国語の時間を削るということがあってはならないと思います。外国語の勉強は国語の勉強の側面支援にはなりますが、やはりまず国語の勉強自体をしっかりやらねばならないと思います。
No.10 国語教育はパズルでない さんのコメント:
現在の国語教育は本当の意味での国語教育になっていない。特に読解問題は「パズル」的なものが多いうえに正解がいくつもある場合でも「正しい答えは一つである」を押し付けているなど問題点が多すぎだ。
No.11 匿名希望 さんのコメント:
国語力が無い奴は、理系に行っても、成功しないぞ。
国語は言語、つまり全ての学問の根幹にある。
それにな、今の授業数でも、国語力が低いのが多いって言うのが実情なのだが。
むしろ、どんどん国語の授業は増やすべきだと思う。
古典ができないのならまだしも、現代文ができないのはどうにかしてくれ。
No.12 本当の国語教育とは さんのコメント:
現在の国語教育のままで「国語力」をはかるのは筋違いだ。
(せいぜい「文法」「漢字」「文学史」がどれだけできているかぐらい)
いわゆる「現代文」においてはパズル的なもので点数をつけて評価するのではなく、ある文学作品に対して「思っていることは多種多様である」ということを認識させる方がスジというものである。
現に「この作品に対して作者がどう感じているか」といったようなテスト問題で作者自身が模範解答とちがう答えを出すといった矛盾が少なからずあるのだ。
No.13 匿名希望 さんのコメント:
>>正解をでっちあげて押しつけるのは
権力に平伏せと言うことだったんじゃねぇの?
No.14 匿名希望 さんのコメント:
>>出題者は勝手に4つぐらいの選択肢を作って、その中にどちらも正解と思えるようなものがあっても、そのうち一つだけが正解なんだと言い張る

読解問題ですが、ひとつの論理的筋道がありるのでちゃんと文章の中に回答の根拠がありますよ。でっち上げではないと思います。

詩を題材にした読解問題は私も疑問に思っています。
No.15 田原 総二朗 さんのコメント:
「No.14」にあえてききたい!
「この作品に対して作者がどう感じているか」といったようなテスト問題で作者自身が模範解答とちがう答えを出すといった矛盾があることに対してどう思っているのか。
はっきり答えてください!
No.16 14じゃないけど さんのコメント:
それは別に矛盾でもなんでもない
No.17 そもそも さんのコメント:
「国語」概念の存在形態を問題にしているトピックかと思えば、それを自明化させた上で語った、単なる教育機関のテストで出題される形式が云々・・というお粗末な内容でがっかりしました。まず「国語」という概念が生まれた状況について、日帝が過去に「大和民族が思想の発表及び理解の用具として」使用したものと位置づけて(山田孝雄)、その概念を「内地」から「周辺地域」へ延長させる為の道具であった・・・ということを踏まえてから一歩踏み込んで「国語」という概念を考えてほしかったです。
No.18 17さんはどこの人? さんのコメント:
『日帝』…。
日本人には聞きなれない言葉ですね。
No.19 そもそも さんのコメント:
「日帝」:歴史の時代的解釈として「日本の帝国期」一般を指して便宜上このように呼びます。一度、歴史的なサンプルを用いて思考をしてみましょう。例えば、歴史的に極めて歪な現象としての「琉球藩」から「沖縄県」への移行過程に平行して、「日帝」としての明治日本から彼の地に向かって遂行された所謂「国語」教育というものの背後には、一体どのような意味が予見されていたかということを・・・。
No.20 匿名希望 さんのコメント:
>詩を題材にした読解問題はひどい。詩の一部分に傍線を引っぱって「何のことか」「何を指しているか」とか、「この詩にタイトルをつけるとしたら何が適当か選べ」とか、全くナンセンスである。いや、それどころではない。これは文学に対する冒とくである。詩とは言葉が魂に直接訴えかける芸術作品であり、小手先の読解技術とは無縁のものだ。


「文系」として同意します。
No.21 エマ さんのコメント:
なるほど。では、教室内で交わされるべき「詩」の読解に関する模範的な問答は以下のようになりましょう!
先生:それでは、「詩」を題材にした読解問題を提出しますから、一言で答えてくださいね。「詩」とは何ですか?
学生:「詩とは言葉が魂に直接訴えかける芸術作品であり」ます。
先生:さすが君の解釈は「小手先の読解技術とは無縁の」答えですね、大変よくできました。
いかがでしょうか。先生そして学生諸君、これからは上述の模範回答を参考にして詩の読解に励みましょう。
No.22 さんのコメント:
教科というよりも内容の問題だ。特に読解問題のパズル化は本当の国語教育からかけ離れすぎだ。
No.23 エマ さんのコメント:
「本当の国語」という概念にとても興味があります。どのような内容なんですか、それは?
No.24 匿名希望 さんのコメント:
>むりやり唯一の正解をでっちあげて押しつける

というのは暴論かと思います。
感想文に○×つけるのならそういうことになるが、作者著者の言いたいことを問うのが「答えのでってあげと押し付け」とは同意しかねます。
筆者さんと同じ国語の授業を受けたわけではないので、その違いが認識の違い担っている可能性もありますが。。

No.9 宏一郎さんなどのコメントには共感します。
No.25 現実 さんのコメント:
特に「作者の考えにふさわしいものはどれか」という問題でその作者自身がテストの模範解答と違う答えを出しているということが少なからずあるそうだ。
No.26 要は さんのコメント:
現在の教科内容が本当の意味の「国語教育」になっていない。
(パズルのような長文読解・特定思想の丸覚え など)
No.27 匿名希望 さんのコメント:
文章の作者の意図とテストの模範解答が異なることを問題にする方がいるようですが、作者の意図と模範解答が異なること自体はおかしいことではありません。
作者がどんな意図で文章を書いたとしても、書いた内容が作者の意図とは違う意味に取れる場合は、作者の意図とは関係無く、書いた内容通り(言葉通り)の意味になります。作者の意図は関係ありません。
模範解答にしっかりとした根拠があるのであれば、その模範解答は作者の意図とは無関係に正しいのです。読解問題はあくまで文章の意味を正しく把握し、そこから導ける結論が何かを考える力を試しているのであって、作者にインタビューをしろとは言っていないのです。
No.28 だからと言って さんのコメント:
「作者の意図と模範解答が異なること自体はおかしいことではありません」
むしろ、模範解答ではなく作者の意図と一致したときに点数がとれないことが問題。
No.29 匿名希望 さんのコメント:
文学作品は読んだ人の数だけ意味がある。出題者が「ここはこういう意味である」と決めて良いものではないと思うが。
「文章の意味を正しく把握し、そこから導ける結論が何かを考える力を試している」のならば、そこからある程度納得できる結論が導ければそれで良いではないか。それを「これが正解だ」などとするからおかしくなる。
No.30 とどのつまり さんのコメント:
「正しい答えは一つしかない」ということがそもそもの間違い(特に国語の場合)
No.31 そもそも さんのコメント:
  氏の国語力と思考力に問題があるか無いか、このトピックをもう一度読んでから考えようではないか。
  氏は一体「教科としての国語」の意味を考えているのか、それともその一環としての「国語の読解問題」のあり方を考えているのか、論旨がぼやけてはいないか?
  前者は「国語」というカリキュラムの存在に関る問題であり、後者はこの前者を前提とした副産品的問題である。誌等を扱うテストを例にだし、前者について懐疑を行うのは、論証の手続き自体に問題があるように思われるが、その点を如何考えるのか?
No.32 愚者 さんのコメント:
まず文科系と理科系という分け方で国語教育を捉えている点が納得できません。仮に分けたとしても国語は数学や理科といった『理科系』と分類している科目で学ぶとされる論理的思考や分析能力なども必要とされる科目であり、学際的な視野で論議しなければならないのでは?少なくともこの論旨では国語教育に対する批判としてやや甘いように感じます。
No.33 さんのコメント:
wwww
No.34 さんのコメント:
国語は大切だ!!!!
No.35 問題が問題だ さんのコメント:
問題にしたいのは国語教育の存在ではなく方法だ。(長文読解の試験問題が国語力でなくパズル力になっている問題が多い)
No.36 そもそも さんのコメント:
そもそも、現在使用されている「国語」という概念はある地域の公用語という意味ではなく、国家(文部省)が一義的に指定した「自国の言語」、つまり国民教育の一環として教科書内に正解の求められ得る国民に与えられるべき言語体系という意味なのだから、そういう「児童」向けの一科目の中で繰り広げられる作文やらに、予め国家から答えが与えられていても何の不思議はないのである。問題は、国家的な義務教育の制度を通過(卒業)したはずの大人が、高等教育の現場でも引き続き予め答えの与えられた「国語」という概念を受け入れる理由はない、という道理を分かろうともしない児童性である。
No.37 ロレンス さんのコメント:
国語とは、日本語という言語を使い、
正しい文章(論理的に矛盾がなく、
分かり易い表現)と、与えられた文
章から、必要な情報を読み取る”
論理科目”であるべきはずと考えま
す。よって、文学部・教育学部(国
文専攻)の教員が教えるのはおかし
いです。法学部・政治経済学部(政
治学科)出身者が教えるのが妥当で
はないでしょうか。日本で国語と称
される科目は、国語と言うよりも「
文学」。文学は日本語という言語を
用いた芸術(小説、詩、エッセーな
ど)を観賞する学問として明確に分
離すべきです。
No.38 エマ さんのコメント:
国語とは、日本語という言語を使い、正しい文章(論理的に矛盾がなく、分かり易い表現)と、与えられた文章から、必要な情報を読み取る”論理科目”であるべきはずと考えます。

ところで、「あるべきはずと考え」るのは自由ですが、あなたの文章が「国語」であるのかを、自己採点してみてください。
No.39 将来 さんのコメント:
英語が国語になる。
(現に日本語から英語への置き換えが進行中だ)
<例>
選手→アスリート・プレイヤー
台所→キッチン
家族→ファミリー
など