パワーポイントが
プレゼンテーションをダメにする
 新しい文明の利器の登場というのは、大きく三種類に分けられる。従来の不便を解消すること、従来の不可能を可能にすること、そして従来より悪くすることだ。三番目のタイプは、そうであるとみんなが気づき始めるまでに、往々にして時間がかかる。

 人間というのは、どうも「一対多」でしゃべるのが好きで仕方がないらしい。特に「一」から「多」に向けて一方的にしゃべることが非常に多い。我々は幼い頃から学生生活を終えるまで、大抵「授業」というものに苦しめられる。学生を終えても講演会、プレゼンテーションなどで同じ様な光景が続く。

 最近はこういったプレゼンテーションに対し、プレゼン用ソフトウェアが普及している。パワーポイント(マイクロソフト社)、フリーランス(ロータス社)などである。これらは、特にビジネス上のプレゼンテーションや学術上の発表会などに使われることが多い。まだ知らない人も多いかも知れないが、プレゼンといえばパワーポイントを使うことが半ば当然の前提となっているような世界があるのだ。

 私はこのパワーポイントを使ったプレゼンが、控えめに表現しても、大嫌いである。パワーポイントを使ったプレゼンは、往々にして独りよがりで、退屈だ。ところがパワーポイントはそれで作られたスライドやOHPが目に鮮やかで仕上がりが良いためか、非難されることがほとんどない。そう、パワーポイントこそ現状では、冒頭で述べた三番目の分類だ。

 もともと一対多でしゃべるという形式は、「多」の方は退屈しがちである。第一、情報の流れが完全に一方的である。喋り手の方が聴衆をひきつけることが十分にできていないと、聴衆は気が散ってしまったり、眠ってしまったりする。このような場で眠ってしまう人を「講師に対して失礼」などと非難する人がよくいるが、むしろ眠らせてしまうような講義・演説の方にも責任を問いたい。大勢を前にして眠ってしまうような話をする方がよほど失礼というものではないのか?

 聞き手を引きつけるには、第一に、聴衆に向かって語りかけるような態度がとても重要である。ここに、パワーポイントの弱点が浮き彫りになる。パワーポイントで常にスライドを映しておくと、部屋の電気を暗くしておくことが多いせいもあってか、聴衆の目はほとんどスライドの方へ向けられる。このとき、喋り手と聞き手のアイコンタクトは殆ど完全に失われてしまう。さらに良くないことに、ここで自らも聴衆に背を向けて、スライドの方を向いてしまう人さえいる。

 最近にありがちなプレゼンは、「表紙」「本日のプレゼンの目次」のようなものから始まって、およそしゃべる言葉の殆どがスライドに書いてあり、スライドが一分に一枚を超えるかというようなペースでどんどんめくられていく類のものである。そのスライドの一枚一枚が全てプリントとして出席者全員に配られている場合さえ珍しくない。喋り手は殆どその資料を読んでいるだけという状況になる。こうなると聞き手は、資料を先走って読んだり、後で読めば分かるから聞かなくなったりしてくる。

 このようなプレゼンテーションでは、喋り手は、パワーポイントを「道具」として使っているのではない。本来言葉を補強するための資料であるはずが、彼らは資料に言葉を添えているだけなのだ。つまり彼らは、資料を用いて説明しているのではなく、用意してきた資料の説明をしているにすぎないのだ。このような主客転倒に気づきもせず、ツールであるハズのパワーポイントに振り回されているのが、日本のプレゼンテーションの現状である。どうやら彼らにとって、プレゼンテーションとは「いかにパワーポイントを使いこなすか」ということのようだ。やや皮肉を込めて言えば、こんなところだ。「どうです、これが私がパワーポイントで苦労して作った資料です。いかがなものでしょう? 本日は、この資料に若干説明と補足を加えさせていただきます」

 パワーポイントを使いさえすれば、プレゼンは一応の体をなす。この種のプレゼンテーションが苦手だった人にとって、パワーポイントは強力な隠れ蓑でもある。それは、本番中に堂々と読める台本と、「目のやり場」を喋り手に提供してくれるのである。

 「プレゼンは面白いかつまらないかではない。いかに効率的に情報を伝えるかが重要なのだ」という意見もあろう。しかし、情報をただ伝えるだけなら、資料だけで十分なはずだ。しかし、それが「なにゆえにプレゼンなのか?」ということを今一度考えなくてはならない。資料を渡したって、あとで読んでくれるとは限らない。それと同じように、わざわざ時間と会議室とを使って、ベラベラとしゃべったところで、それをちゃんと聞いてくれているとも限らないし、理解してくれているとも限らないのである。そこで、確実にいいたいことを聴衆に伝えるだけの話術が必要になってくる。プレゼンというのは、ある意味で説得の場である。メリハリがあり、ある程度心に訴えるような内容があるというわけでもないのなら、それはプレゼンテーションという形態をとる必要はない。

 パワーポイントは今後ますますパック商品に添付されて、さらに普及することの間違いのない製品である。もちろんパワーポイントにいたずらに否定的でいても仕方がない。パワーポイントを効果的に使うことで、以前より優秀なプレゼンテーションを行う技術を身につけ、そのような使い方をするのなら、それこそ本当に望ましいのだ。しかし使い方によっては、パワーポイントのためにプレゼンが死んでしまうことがある。そうならないように気をつけたいものである。何よりも、プレゼンテーションの主役は、パワーポイントでもなければ手元の資料でもない、あなたの情熱と口舌そのものであることを忘れてはいけない。

※本トピックは1997年以前に書かれたものです。 参考


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匿名希望 さんのコメント:
「スライドの一枚一枚が全てプリントとして出席者全員に配られている場合さえ珍しくない。喋り手は殆どその資料を読んでいるだけという状況になる。こうなると聞き手は、資料を先走って読んだり、後で読めば分かるから聞かなくなったりしてくる。」
言われる事はわかる。
なら、資料の字を少なくして口頭で話せば聞いてくれるけれど、帰ってから読みなおした(読み直してくれるとして)時に、ここなんだっけ?他にも何か言っていたな、となる。

使えたい事を全て後から読んでわかってもらうようにするにはもれなく書いておく事になる。

適度に抜いて本人に書き足してもらうようにするには、ある程度の部屋の明るさが必要になりパワーポイントが見えずらくなる。

矛盾というか、すべてが一長一短になるように思うんですけどね。どうなんでしょう。
No.19
匿名希望 さんのコメント:
「言葉」も道具だと思います。しかし、思考はこの道具を使ってしか行うことが出来ないですね。道具は、「たかが道具、使う側の人間が問題」とは言い切れない深い問題を抱えているのではないでしょうか?人間は言葉以上の思考が出来ない。とも言えるわけで、その言葉の補助・代替としての プレゼンテーションツールも、単にツールではなくそれ以上の意味・魔力を持つとも言える訳です。原文には少しも「情熱」だけが重要だとは書いてありませんし、そう言う浪花節的なことを主張されているとは思えず、むしろ、思考の道具の意味の奥深さを示しているように感じます。 人は道具によってしか語れず、道具の魔力にだまされやすい存在であると言うことではないでしょうか? ある経営者は、役員達が、パワーポイントで自分の担当の業務実績や内容を説明しようとし始めたときに、「諸君、PCを閉じたまえ。諸君の言葉で自分を語ってくれ。」と言ったそうです。この言葉から、この会社の業績は回復され始めたようです。現実を知るには、何が必要かを語っている事象かもしれませんね。 No.18
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