解散宣言・「正しい日本語を守る会」
「ら」抜き言葉は、 日本語の前進的変化の一面である
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2003.6.1
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「食べれる」「見れる」
これらの言葉は、本来は助動詞の使い方として間違っている。正しくは、
「食べられる」「見られる」
と言うべきだ。文法的に言えば、「れる」「られる」はいずれも(1)受け身(2)可能(3)尊敬(4)自発の意味を持つ助動詞である。これらの使い分けは、上に付く動詞の性質で決まる。動詞が五段活用・サ行変格活用のときは「れる」、それ以外では「られる」を使うのだ。
実際には少なくない人々が、
「食べれる」=可能
「食べられる」=受け身・尊敬
というように考えている。ところが、このような意味による使い分けは、本当は誤りなのだ。
しかし、「れる・られる」はたったひとつの助動詞で先に挙げた4つの意味を表しうるのである。聞き手の方は、話し手がどの意味で使ったのかをハッキリと確信できないことが生じやすい。ところが、「少なくない人々」の用法では、少なくとも「食べれる」と言った場合必ず「可能」であると確信できるのである。つまり、このような使い方をすれば、意思伝達という言葉の本来の目的により叶った、正確な伝え方ができることになる。すなわち、非常に合理的な変化であると言えるのだ。だとすれば、このような使い方をして何が悪かろう?
「ら」抜き言葉のすばらしい点は、本来の用法から「ら」抜き言葉に移行する時期に混乱を生じない点である。正しい用法を知っている人でも、「ら」抜き言葉を使われたからと言って互いの理解の食い違いは生じない。もちろん、「ら」抜き言葉推進派の人たちが「食べられる」が可能の意味で使われることも知ってなければならないのは当然だが。
文法的には、「食べれる」という言葉は「食べる」+「れる・られる」ではなく、別個の独立した「食べれる」という可能の意味を含んだ動詞だと解釈することができる。このような「可能動詞」を別に持っている動詞は多いが、中でも五段活用で可能動詞を別に持つ動詞では、「れる」を付けた正しい形ではもはや可能の意味に解せなくなっているものが多い。
「歩く」+「れる・られる」は「歩かれる」だが、「歩かれる」は尊敬の意味では使えても、可能は「歩ける」と言わないと通じない。
「作る」+「れる・られる」は「作られる」だが、「作られる」は受け身の意味では使えても、可能は「作れる」と言わないと通じない。
「しゃべれる」「掘れる」「切れる」なども同様である。
これらの言い回しはいわゆる「ら抜き言葉」ではない。「作る」「しゃべる」等は五段活用なので助動詞「れる」が付くのが正しい。しかしこの場合は、ら行五段活用+「れる」のうち、動詞の未然形の「ら」が落ちて、独自の可能動詞を形成している。助動詞「られる」を使うべきところに助動詞「れる」を使っているわけではない。しかし「ら抜き言葉」に似た原理で、可能動詞が作り出されてきたのである。
可能動詞は全く別物になっている場合もある。
行く→行ける(cf.行かれる)
運ぶ→運べる
歌う→歌える
受身や尊敬ではなく可能であることを明確に示したいという、使う人間の意志が表れてこのような言葉ができてきたのではないだろうか。このように考えると、「ら抜き言葉」が登場して蔓延しつつあるのも、言葉の進歩と歴史の必然であり、日本語が完成度を高めてゆく過程の一つであると思えてくるのである。
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