慈恵医大付属病院の医師ら3人逮捕 手術原因で患者死亡
東京慈恵会医科大学付属青戸病院で昨年11月、前立腺がん摘出のため、「腹腔鏡手術」を受けた千葉県松戸市の男性が1カ月後に死亡する事故があった。熟練した技術が求められる手術に、未熟な医師が担当したことが原因とみて、警視庁は、執刀した泌尿器科の医師ら3人を業務上過失致死容疑で逮捕した。
3人が手術前に、許可する権限を持つ泌尿器科の診療部長(52)に対し「腹腔(ふくくう)鏡手術をやってみたい。自分たちで研究したい」と求めていたことがわかった。
3人の医師たちは、逮捕されて当然だと私は思う。これでは人体実験ではないかと非難する声も多いが、人体実験とか患者軽視と言うよりは、「人命軽視」という部分があるのではないか。
医師というのは毎日、生死を目の当たりにしているという意味で特異な職業である。命を救う職業ということは、同時にまた、命を失う場面に直面する機会も必然的に多くなり、一つひとつの死に対して感傷的になってはいられなくなる。実際のところ、入院した患者のうち、全員が生きて退院できるわけではない。病院によってまちまちだろうが、入院患者が無事退院できる退院率なる値が存在するわけだ。別の言い方をすれば、大抵の人は、最後は病院で死ぬ。
そういうわけで、医師はもともと全員を生存に導けるわけではなく、退院率の内側になるべく患者を引き込もうという、努力目標的なものを遂行する存在だ。野球で打者が3割以上の確率でヒットを打てば賞賛されるように、もともと成功率100%の職業ではない。ここに、「人命軽視」になりかねない要素があると思うのである。
もちろん、退院率と、今回のような手術を単純に比較し、打者の打率になぞらえるのはあまり適当ではない。もともと手術の内容によって成功率が違う。虫垂炎の手術で失敗して患者を「退院率」の向こう側に追いやってしまってはいけない。私が言いたいのは、たとえ医療ミスがなくとも病院で患者が死ぬのは日常茶飯事であるから、そのことが医師や看護婦を死に対して鈍感にさせてしまう面があるのは防ぎがたいのではないかということだ。
しかし、忘れてはいけないのは、少なくとも医師が存在していなければ、この患者は死んでいたということである。病気になったこと自体は、別に医師のせいではない。問題は単に患者が死んだことなのではなく、医療ミスによって死んだことなのだ。病院からすれば、医療ミスの存在がバレるかどうか、こそが重要になる。このことは、今回の事件が、全く以て氷山の一角にすぎないという疑念を強めさせる。
私の言いたいことは、以上の文章では良く伝えられていないかもしれない。そこで、類似の職業を挙げて、理論の補強としたい。
消防士という職業を考えてみたい。今、目の前でビルが燃えさかっているとしよう。中には10人ほどが取り残されている。まず当たり前のことであるが、火事が起きるのは消防士のせいではない。そして、消防士が存在していなければ、この10人は死んでしまうのも事実だ。
消防士というのは、この10人全員を救わなければ責任を問われる、といった立場ではない。「一人でも多くの人命を救うこと」というやや曖昧な目標が、彼らの使命である(ここも医師の場合と比較したい)。今この火事の現場で、ある消防士が奥の方にうずくまる生存者を発見したとしよう。この生存者を助け出すことはそれほど難しくはないが、消防士はもうすでに疲労しており、純粋に暑いし、面倒くさいし、消防士自身にも危険がないわけでもないから、救出を断念して建物の外に避難した。この火事で10人のうち7人が救出され、3人は死亡した。
もし一部始終を見ているカメラでもあれば、「本当は死亡者は2人ですんだはずだ」という事実が明らかになる。そしてこの消防士は、「任務を遂行しなかった」「判断に過失があった」「怠慢だった」などということになって非難されるだろう。明らかに助けられたケースなのに見殺しにしたとハッキリした場合、消防士を業務上過失致死や保護責任者遺棄で逮捕できるのだろうか。いずれにしても、このような燃えさかるビルの中では、カメラもなければ、目撃者の存在も期待できない。
消防士は、「放っておけば死んでしまう人」を「救う」ことが任務であるという点で、医師と同じである。しかし、消防士の過失や怠慢の証拠は、医師のケース以上に残りにくい。
こう考えると、医師や消防士のような職業に対して、普通の人と同じ程度に人の命を重く受け止めさせ、なおかつ過失を隠さないようにするというのが、いかに困難であるかが浮き彫りになってくる。