そもそも著作物というのは、簡単にコピーしたり転売したり出来る以上、物理的に著作者の権利が守れるものではない。物体として存在する物であれば守れる。陶芸家が茶碗を作ったら、それを蔵にしまっておけば守れるし、買い手がついたら売って、また新しい茶碗を作ればよい。それとちがい、著作物は誰にも見せずに蔵にしまっておくのならともかく、一人に売ってしまったら最後、その人が無料でコピーして配ってしまうかもしれない。
コピーされることが「おかしい」と感じられるのは、今の世の中がそうなっているからである。最初から無条件に「著作権は守られて当然」というように捉えるのはおかしい。著作物というのは、利用する者の権利が守られて初めて、金銭的価値が生まれるのだ。
著作権を守る必要があるのは、利用する者に著作物を公開するからである。
従って、利用する側の権利を保護することもまた重要であると言える。何しろ、著作者の権利だけを守るのなら誰にも見せずにしまっておけばいいわけで、「読ませる/聞かせる」ことによって初めて「守る」必要が出てくるのであるから、「読む/聞く」側の権利を守るのもまた当然である。
いずれにしても、わざわざ法律を作って著作権を保護するようになったのは、社会全体のバランスを考えて、適度に守ることによって優良な著作物を作成・頒布するインセンティブを起こさせるためのものだと考えるべきだ。
わざわざ著作権法を作って、著作権を保護するのは、著作者のためだけではない。
そうすることが、結局は利用者を含めた国民全体にとってプラスと判断されるからである。
この原点に立ち戻れば、「著作権→保護するべき」という単純な図式だけで語るのが好ましくないことは分かるだろう。
今や権利ビジネスはブームである。「著作権」の何たるかを語ることが、ちょっとした有識者であるかのようなふりをする一つのネタにされそうなくらいだ。ところが、「権利ビジネス」というのはあくまでも著作権者側の「権利を主張する」ことであり、「権利を保護」することでしか語られない。どうして利用者の面から語られることがないのかは実に不思議である。
世の中というのは徐々に、供給者の保護に動くようになってしまう。安定した供給を目指して業界に保護を与えると、いつのまにか目的と手段が逆転し、業界を保護することが目的になってくる。タクシーの安全とサービスの質を保ち、利用者の便を図るための需給調整は、いつのまにか単なるタクシー業界保護の政策となり、業界を守るために新規参入を難しくする。こういった業界保護と同じことが、著作権にも起こったと見るべきだろう。
社会全体の便益を図るはずの著作権法が、著作者という名の供給者を一方的に守るためだけのものになりつつあるのだ。
それにしても、ここのところのJASRACの主張はちょっと横暴をきわめているように思える。前頁に書いたように、CDを店舗内でBGMとして流すことさえままならなくなった。しかし、事実市販のCDをBGMとして流すことは自由利用が許されていたのだが(著作権法附則第14条、施行令附則第3条)、2000年1月にこの条項が削除されたらしい。そのうちCDを買っても、道ばたで聞いたり口ずさんだりしてはいけないとでも言われそうだ。
また、WinMXによるファイル交換も逮捕者が出た事件でも、逮捕された学生は著作物を勝手に人に売ったわけでも配ったわけでもあげたわけでもない。今回、逮捕の法的根拠となったのは、1997年に改正された著作権法第23条1項で定義された「送信可能化権」によるもので、「著作権者の承諾なく、違法ファイルを自由にダウンロード可能な状態にしていること」が違法行為にあたるというのだ。
このように、我々の知らない気づかないところで、様々な権利団体や天下り先団体の圧力であろうか、法律がちょこちょこと改正され、著作権は守られる一方なのである。
しかし、これでは利用者不在である。歌詞のホンの一部を引用しただけでいちいち許諾番号の印刷をしなくてはいけない状態はいきすぎである。いつどこでだれが権利を主張し出すか分からないのでは、利用者としては安心して著作物の利用ができない。しかし、著作権が無制限に認められてることがおかしい理由は他にもある。次に、その辺を考えてみよう。