そもそも理科系と文科系を区分している基準は何だろうか? とりあえず理科系と文科系は、自然科学と人文科学に置き換えて考えることができるだろう。自然科学は数学、物理学、化学、地学、生物学、医学などを含み、その応用分野はおよそ全てのテクノロジーに及ぶ。一方で、人文科学とは、文学・歴史学・経済学・哲学・法学などということになる。そんなことをここで今さらおさらいしてみたところで、仕方がない。しかしこれらの個別の学問を見ていると、次のようなもっともらしい区別の基準が考えられる。
「既に存在しておりかつ知られていない真理」を追究するのが自然科学、そうでないのが人文科学
違う!何も分かっていない!乱暴だ!軍国主義者だ!……場内騒然の罵声が聞こえてきそうだが、話を先に進めてみよう。この基準のイミするところは、「誰がなんと言おうと、確固たる正解というものが超人間的に存在する」ようなものについての研究が理科系の領域だ、ということである。たとえば、どこかの星に文明を築いている宇宙人でも、われわれと全く同じ(あるいはそれより進んだ)物理学や数学を創り上げていると予測される、と考えると分かりやすい。理科系は答えを探す学問であり、ある一定の正解を探すために研究者たちが競っているのである。従って誰かが解明した答えについて異論を唱える余地はない。いや、現実にはそういうこともあるのだが、それは解明の仕方が甘いか、解明せずに自分の期待する答えをお互い言い張るときかである。理科系の分野なら二人の十分に頭の良い科学者が導く結論は同じであり、しかもその結論は十分に論理的な人なら必ず同意できるものである、と期待できるのだ。一方で、文科系の学問は純粋に何かを解明するのではなくて、意見や主義主張と言った要素が含まれてくるものであり、唯一解の存在を確信できない。
少々脱線するが、明らかにこの基準からはずれているものとして、歴史学がある。正確には考古学というべきかも知れない。これは既に起こってしまったことに関する研究なので、事実は一つしかなく、確かにそれを探っている。もちろん史料が少なく正解が分かり得ない状態であれば、結局意見のいい張り合いになる。とはいえ、謎解きのように真実を追求する面では自然科学に近いと言えるだろう。また、純粋な経済学もこの基準に照らせばほとんど自然科学であると言って良いほどである。
さて、一般的な傾向として、文科系の教授は権威があり、理科系の教授はなんだか人数も多くて一人一人の影が薄く、エラい教授というよりは世間知らずの研究者といったイメージが強い。これは、研究者間に起こる淘汰の圧力の性質の違いで、必然的に生じることである。理科系の研究者はあるナゾを解くために競っている陸上競技の選手のようなもので、その土俵だけで戦う面が多い。一方で、文科系の研究者の場合、いかに自説が正しいかということを押し通すためには、その理論だけが正しくても不十分なのである。なぜなら、それには「明らかな正解」というものがないからだ。もちろんある場合もあるが、一般的な傾向の話である。そして、そういう中で競争に勝つためには、いかに人を説き伏せるか、押しが強いか、エラそうで、ハッタリがきき、カリスマがあるか、ということが非常に重要な要素となってくる。理科系の中でアタマがいいだけで勝ち残ってきた教授たちと違い、文科系は自説が正しい以上に、そのような基準での淘汰に耐えなくてはならないのである。(もちろん理科系には押しの強さなどが必要ないと言っているのではない。双方の比較においての話である)
従って、世間で文科系の教授の方が権威があることは、おそらく事実として検定され得るだろうが、それから文科系学問の優位性を結論することは全くできない。たしかに研究者の中では文科系研究者の方が権威がある人が多いかも知れないが、それはその「文科系研究者」という職業がもつ性質で、文科系という分野の学者にかかる淘汰圧の性質に起因するものであり、学問そのものの性質ではないのである。