文科系と理科系という観点から教育論を語るとき、私はいつでも、「国語」という教科に割り当てられている時間が多すぎるということを主張する。国語の時間は多すぎるのだ。多すぎるのだということを客観的に論じることは難しいが、それは国語がそれ以外の教科に比べて明示的に「学ぶ」こと---例えば○○の法則とか○○の計算法とか○○時代の歴史とか---が少ないことによるのだろう。逆に、時間を減らしたところで国語力が低下するとは限らない、とも言える。
母国語を大切にすることに対して異論を唱える気はない。私には教科としての国語が、あまり意味のあることとは思えないのである。特に、詩を題材にした読解問題はひどい。詩の一部分に傍線を引っぱって「何のことか」「何を指しているか」とか、「この詩にタイトルをつけるとしたら何が適当か選べ」とか、全くナンセンスである。いや、それどころではない。これは文学に対する冒とくである。詩とは言葉が魂に直接訴えかける芸術作品であり、小手先の読解技術とは無縁のものだ。
ましてや、「理科系の人は、答えが一つに決まってないと気持ち悪がるからね〜」などと言う発言を良く耳にするが、もうまるっきり認識がまちがっている。理科系の学問では、特に数学など、答えが存在しないことを証明したりするのは、ざらにあることである。量子力学によれば、物質の単位は粒子であり波でもある。理科系の人は答えが存在しなかったり二つ以上存在したりすることはまるで容認できる。そこへ行くと、国語の読解問題など、出題者は勝手に4つぐらいの選択肢を作って、その中にどちらも正解と思えるようなものがあっても、そのうち一つだけが正解なんだと言い張る。答えが一つではないところにむりやり唯一の正解をでっちあげて押しつけるのは、国語という教科の得意とするところではないのか。
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