偏った社会科教育 歴史はそんなに重要なのか
|
1998.1.1
|
年末の日経新聞に「西郷隆盛らしき人物が写っている写真が見つかった」という記事が社会面に結構大きく出ていた。今までは一枚もないと思われていただけに、大きな発見らしい。
私はこのような記事が大きく扱われるのは極めて不愉快だ。新しい素粒子が見つかったとか、そういう科学の記事は小さくしか扱われないクセに、どうしてこんな西郷隆盛の写真がニュースになるのか。
西郷隆盛の写真があろうとなかろうと、明治の日本の歴史にいささかも変わりはないし、それはもうすんでしまったことだ。あとはもう歴史家と歴史マニアと歴史ファンとの趣味の世界でしかない。経済的な価値などまるでない。
科学技術上の発見であれば今後の経済に影響を及ぼす可能性は高い。しかし、西郷隆盛の写真とかは、せいぜいそれがなにがしかの本に載って出版されて売り上げなんぼとか、その程度のものであり、ニュースとしての価値は極めて低い。そうでなくても私は古墳が発見されたとか壁画がどうだとか、こういったニュースが普段から不当に大きく扱われているような気がして、大変憤りを感じる。史跡・史料の発見と言った、歴史のニュースは概して過大に扱われがちだ。
私は歴史を学ぶこと自体に反対ではない。過去の教訓をこれからに生かすのは、知的生命体としては当然のことである。しかし、現在では過去の歴史の大部分はわかっており、時折新聞で扱われる発見ネタは、歴史の大勢に全く影響を及ぼさない趣味の領域だ。
このように歴史関連ニュースが必要以上に大きく扱われてしまう理由は、ひとえに歴史偏重教育にある。文化系の大学入試においてもそうだし、中・高の教育でもそうだが、社会科の中で歴史がしめる比重が大きすぎる。本来は経済学や法学でもやればいいハズなのだが、どうしても社会科教育は歴史に偏ってしまうのだ。いきおい、文化系エリートは歴史がまんざら嫌いでなかった人々でしめられることになる。少なくとも私には、重箱の隅をつつくような歴史教育が、言われているような歴史を学ぶことの意義に照らして、はるかに度を超えて詳しく細かくて無駄であると思えてならない。
なぜここまで歴史が社会科教育で大きな比重を占めるのかはほぼ明らかだ。一つにはそういう教育を受けてきた彼ら自身がカリキュラムを決めていてることによる悪循環もある。だが、法学とか倫理とか、いろいろな学派が存在して全国画一の指導要綱を決めようとしてもまとまらないものに比べて、純粋に過去の事実としてのみ存在する歴史は、指導方針などについて論議が比較的起こりにくいのだ。
しかし残念ながら、こういったことを主張する人たちは世間でもまことに少ない。私は歴史を教えるのをやめろと言うつもりは毛頭ない。しかし、こういったことも念頭に置いて、一から科目比重のリバランスを行うべきではないだろうか。そういったことが全く出来ないなら、日本の教育はもはや完全に、既得権益にしばられて硬直化した官僚システムの一部と化しているといわざるを得ない。
Tack'ns Entrance