解散宣言・「正しい日本語を守る会」
日本語の乱れ問題は、原則容認であるべき
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言葉の変化に対して、必要以上に保守的であることは好ましくない。一般的に言っても、変化を否定することは、進化を否定することでもある。言葉はある日突然できあがったものではない。絶えず変化を続けて徐々にできあがってきたのだ。そう考えるなら、これからもますます完成されていくものととらえるのが自然だ。現在の日本語が完成されたものと考えるのは、現代人の奢りというものである。数百年後には、今日われわれがしゃべっている言葉だって間違いなく古文扱いされるのだ。
だからといって、変化が必ずしも前進であるとは限らない。それどころか、客観的に前進ととらえられるものはわずかに違いない。ほとんどの変化は、前進と言うよりは時代との同調と考えるべきだ。世の中の文化・風潮、社会の仕組みなどの変化に応じて、ふさわしく使いやすいものに絶えず変化するのだ。
それではわれわれは、言葉のどのような変化に対しても寛容であるべきなのだろうか? もちろんそうではない。明らかに後退と考えられる変化があるのも事実だ。この弊害は変化の中間段階にもっとも顕著となる。それは、言葉の最も基本的な役割である、ものや事柄を指し示す機能、言い換えれば他のものと区別する機能が曖昧になるからである。
結論から言えば、日本語の乱れ問題に対しては、原則容認で対処すべきだ。そして、言葉の機能を明らかに減じるもの、または曖昧さを多くするものについてのみ、警告を発するべきなのだ。しかし、この例外についての各論は意外に面倒である。
いずれにせよ実際にこれを語るには、例示するのが一番である。これによれば、日本語の乱れ問題の筆頭である「ら」抜き言葉は、実はむしろ推奨すべき変化であるという驚くべき結論になる。本コーナーの以降のトピックは、すべて例示に割かれよう。
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