T氏が、村民会館の講演会で語るには:
ある職業・職種の人が、一時的にたくさん必要になる。あるいは、当時は永続的に必要に思えて、とにかくたくさん確保する。ところが、時代が変わり、そんな職業・職種は必要なくなるか、少なくともそんなにたくさんはいらなくなる。実はこれが、非常によく起こることです。
例えば、小さな例を見てみましょう。昔、乗り合い自動車(バス)には、女性の車掌がいた。しかし、自動清算機が社内に積まれる昨今では、こんな人は必要ないわけです。しかしいっぺんには解雇できませんね。最近でこそ見なくなりましたが、ついこの前までは、自動清算機がありながら車掌から切符を買わなければ行けないという、極めて非合理なバスがたくさん走っていました。
電話もそうです。電話交換手も必要だったし、電話を引く工事の人も必要だった。でもいまは交換手なんていらないし、あらかた電話を引いてしまった今、新しい工事なんてそんなにあるもんじゃないわけです。前者は「当時はいらなくなるとは考えられなかった」例です。後者は、「いずれいらなくなることは明らかだった」例になります。いずれにしても、こういった要員を解雇できないことが、現在の電話料金を下から支えている原因であることは間違いありません。確かに競争のある通話料は下がっていますが、競争のない基本料金は下がっていません。
これらが国家レベルで論じられるときはいよいよ困ったことになる。今の日本が景気が悪いからと言って、土木工事に投資することが果たしていいんでしょうか。消費が促進しないのは、国の未来が明るくないからです。ますます財政が破綻に向かうのを承知で無理な出費をして公共工事をしたって、国民はビビってしまいます。国の財政、つまり年金しかりですが、それが立ち直れば国民だって安心して消費に動くことができます。
ですが、もうダムもいらない、道路もいらない、だからといって公共工事をストップしてしまうと確かに、国民の半数近くいると言われる土建業界でメシを喰らっている人たちが、困ったことになってしまう。現在の土木工事は、必要だから作っているのではなく、土木業者を食わせるために行ってるのがほとんどなわけです。そうなるのは、高度成長期には確かに大量に必要だった建設土木業者が、インフラが整備された今、かつてほど必要なくなってしまっているからです。
こういった、「前は必要だったけど、今はいらなくなった」式の職業や職種は、枚挙にいとまがありません。これは不景気だとか高度成長だとかいうことに関係なく起こることです。おそらくこれからもおこります。未来永劫に起こります。
ですから、こういった状況に対応できる、普遍化された方法・法則を確立しておくことは非常に望まれるところです。いつの時代でも起こりうることだからこそ、です。今こそ土木工事を発注しなければいけない、というのは私は納得がいきませんが、確かに必要な側面もあるでしょう。だからといって漫然と発注していてはいけません。後生にも、土木工事に限らず同じことが起こるでしょう。そのときに、もう少しましな対応ができるように、いま、我々は考えなければ行けません。経済学者は、法学者は、政治学者は、社会学者は、思想家はそこを考えていくべき。考えるべきなんです。少なくとも、本当に必要なものと、仕方なくやることを明確に区別して、後者をなくす方法を模索する努力がなくては行けません。
私が言いたいのは、これは「今は特別」な状況ではないと言うことです。この特殊な状況下では土木工事をやるしかない、これを「土木工事の必要性が急減するという特殊な移行時期の問題」と考えてはいけない。こういうことは、起こるべくして起こっているのです。繰り返しになりますが、同じ状況は、必ず何度もこれから起こります。それに対応できる一般的な解決策、またはそういう状況を起こさないですむ方法が必要だということです。
不思議と石炭に関してはうまく行った方だと思います。石油に勝てなかったのでしょうねさすがに。でも、当初は石炭業界を保護するため、「重油ボイラー規制法」なる法律を作って、石油の使用を厳しく制限していたのです。でも、国が農業のように補助金を出して、現在になってもいらない石炭をせっせと掘っている状況は回避できました。同じように、いらないものは作らない・発注しない・そもそもいない、そういう仕組みに世の中を変えていかなければならんのです。
バスや電話の例は、企業や自治体がきちんと計画的な雇用計画をするかどうか、先見の明があるか、という採用・雇用の問題にかかってきます。しかし、国レベルで語られるたとえば土木業者の例は、市場原理の裏返しです。当時需要があったから、それで食おうとするものが自然発生的に増えてきた。そこには、誰にも責任はないわけです。あえて言うなら、「今はたくさん発注してるけど20年後は半減するよ」と公言しておけば、ちがったかもしれない。