T氏が、村民会館の講演会で語るには:
友人たちと旅行に行ったときとか、「必ずしもいつも一緒にいるわけではない人たちと、同じ部屋で夜を過ごす場合」に、テレビの存在は害そのものです。
せっかく一緒に過ごす夜は、共に談笑し、語らう絶好の機会なわけです。しかし、一旦テレビをつけると、その状態は完全にぶちこわしにあってしまう。テレビ番組の内容がそれほど興味深いものでなかったとしても、メンバーの気はテレビに取られる。そして、テレビに話題をリードされるようになるわけです。
メンバーそれぞれが、テレビの内容について感想を言ったり、テレビの内容からふと思いついた話題をふったりします。でも、所詮は会話の内容がテレビに振り回されるのですよ。こういうときに出る話では、概して誰としゃべっても大して変わらない話題と内容が多くて、せっかくその場に集まった顔触れという環境を生かした場にはなってないと思うわけです。
しかし、それでもこういった状態を好む人たちもいるのです。テレビをつけるとか、そうでなければトランプをやるとか。私にとって、トランプに代表される各種ゲームは、ほとんどテレビと変わらないです。誰とやっても同じだから、ですね。しいて言えば、罰ゲームの存在が多少はいい方向へ持っていくかもしれないですが。
やや辛辣な表現をすれば、テレビやトランプというのは、時間つぶしの手段に過ぎないのです。せっかく集まったメンバーと過ごすのに場が持たないから、何かをして時間をつぶすというのですか? 実際問題として、こういった場でテレビやトランプを好む人というのは、なにがしかの強迫観念にとらわれて、常に「何か」をしていないといけない気になるのだと思います。
テレビやトランプをしていても、会話はあるではないか? そのときの会話の内容も十人十色で、誰とやっても同じとは言い過ぎではないか? こういった反論もあるでしょう。ですが、会話に出てくる個性の濃さがまるでちがう。それに、私は、何かに対する知識の交換だとか、うんちくの披露だとか、感想だとか、そういうことをしゃべるのがそれほど好きな方ではないです。「何かについて」語るよりも、自らのクリエイティビティに基づいてしゃべる方が好きだし、話題の内容もテレビや雑誌などにリードされるのではなく、メンバーの創造性や日頃の考察・経験などに基づいて出されるものの方が断然面白いのです。
こういった状態は、逆を考えてみるととても分かりやすいです。大して話したくもない相手となんとか間を持たさなくてはならないとき、テレビの存在はとてもありがたい。実際、私もそれでいいやと思うこともある。望まない相手と電車で二人きりになってしまったとき、社内の中吊り広告に話題を求めることもあるでしょう。気の乗らない逢い引きに、映画鑑賞は格好の過ごし方ですよ。好んでテレビやトランプをやりたがる人は、多分こういう心境なのではないか、とさえ私は勘ぐってしまうんです。