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結果が平等である必要はないけれども、機会は均等に与えられるべきです。しかし、努力が報われるとは限らない世の中になってきています。汗水ながして働いた者ではなく、ホリエモンや村上ファンドのような輩が富を手にするのはおかしいと思うのです。
何を言うか。努力など、しないですむに越したことはないのである。努力ほど辛くて大変なものはない。できることなら、誰だって努力なんかしたくないだろう。
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ですから、せめて努力をした後に報われる世の中でなくては。
お主の発想は逆だ。確かに、報われるかどうか分からない状態で努力するのは辛かろう。だが、確実に報われるんだとしても、なお努力それ自体は、辛いのである。
逆に、結果が平等な社会、つまり努力しても決して報われることのない社会にしてしまえば、誰も努力なんかしなくなる。努力しようとしなくてすむのである。努力を怠っている間の、えもいわれぬ焦燥感や罪悪感は、なくなる。
ユー・ウィル・ビー・ネバー・リウォーデッド・フォー・ユア・エフォーツ。そういう社会が、本当は良いんだ。
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はぁ?
偉い人はみんな、こんなことは分かってるのだ。それなのに、みんなずるいから、声に出して言わないのである。
なぜなら?
自分たちの存在がまさしく、結果の平等を否定しているからだ。つまり、努力が報われない社会を認めることは、自らの地位を失うことでもある。
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しかし……
機会の平等は必要だが、結果が平等である必要はない、……というのが最近の風潮だ。しかし、結果が平等だと決まってさえいれば、無駄な努力などしなくてすむ。人生をおもしろおかしく生きればそれでいいのではないのか。
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それでは競争原理が働かず、生産性が落ちてしまい、共産主義の失敗を繰り返すだけではありませんか。
この手の話ではすぐに、そういう反論が起こる。しかし共産主義は失敗したのではない。20世紀には時期尚早だっただけだ。
来たるべき時代には、生産など全てロボットがやってくれるのである。競争原理も生産性も必要ないのだ。ロボットが何もかもやってくれる時代にまで「努力は報われる」を持ち込んだら、全く以てカラ元気のカラ回りで、人間たちがガマン大会をやるだけになってしまうではないか。おそらく必要のない仕事を作り出して、わざわざそこで競争を作って苦労をする。もしかすると、その競争は軍事的なものになるかも知れない。
ロボットが何もかもやってくれる時代には、「合い言葉はネバー・リウォーデッド」という思想が必要になるのである。
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だいぶ先の話で、私には想像ができません。