さて、この話をするときには、私はもう一度この記述を拝借して来なくてはならないだろう。それはつまり、
テレビでCM後に、数十秒の 巻き戻し/繰り返し放送をするなでも紹介したものであるが、次の通りである。
いつからか、お笑い番組の受けゼリフが、同時に文字で画面に出るようになった。
技術がそそのかした一時的な悪弊であって欲しい。手を体に当てて「こうやったら笑って下さいってことですから」とやるネタが落語家にあったようだ。テレビが文字で伝達しようとしているのは、まさにこれだ。
Click Critiqueより
原文のサイトは閉鎖されてしまったので、今やきちんとここに残しておくべきであろう。ほとんどそのために、このトピックを起こしたと言っても良いくらいだ。しかし原文は1998年頃のものであるから、「一時的な悪弊」であったとは言い難い状況になってきている。
そして今や、字幕が出るのは「受けゼリフ」だけではない。バラエティ番組の類では、発言の半分近くに対して字幕が出ているのではないかと思える。そして、その位置も画面下部の定位置だけとは限らず、マンガの吹き出しのように画面のあちこちに出てくるし、擬音まで書かれることもある。そして、出演者が引き合いに出したり受けをねらうために言った「何か」(有名人であることも、モノであることもある)の写真が、その瞬間に画面の小窓に映されたりもするのだ。あるいは、ギャグの解説めいたことまでが映される。その他にも、スタジオで起こったことではなく、編集の技術で笑わせようとすること実に盛んである。
うざくて、うざくて、仕方がない。
何だかこの状況を見ていると、例えばPOP広告を書く職種のように、番組のフィルムに字幕をつける職種があるかのようだ。そして、録画番組は必ずその職人の手を通され、職人は何の疑いもなく、考えられる限りの字幕と吹き出しをつける。当然の工程としてそれが存在する。実際、この想像は現実とそうかけ離れてはいないのではないか。マンガを原作とするテレビアニメでさえ、吹き出しや字幕はつかない。なのに、実写のバラエティはそれがつくのである。
最近の早口傾向でお年寄りなどがセリフを聞き取れず、そういった苦情や要望に対して過剰に反応したものの可能性はある。だが、一部の視聴者の要望を聞き入れて多数の視聴者に薄く広く不愉快を強いるのは、感心できることではない。そもそも難聴者であれば文字放送の機器を購入し、こういったことはそういうレベルで解決するはずのものだ。
「ウケる」ポイントに字幕が出て、またその書体や表示するタイミングで笑わせる。これは、大して面白くないものを補強して、視聴者の笑いを誘う狙いもあるだろう。要は、笑い声を故意に入れるのと一緒だ。(余談だが、私はおばさんの笑い声を入れられるのもイヤだが、スタッフの笑い声が入るのはもっとイヤだ。内輪受けをそのままお茶の間に持ち込まれているような気がするのだ) これでは、我々は自分の笑いのセンスというものを奪われ、字幕が出たら笑う、という「パブロフの犬」のような状態になる。
笑う場所を自分で気がつき反応する、という部分は笑いの重要な要素で、笑いの一部であるのだと私は思う。だが、次の世代の子供たちは言うかも知れない。「おかあさん、画面に文字が出たら笑えばいいんでしょう?」と。
全てのセリフに字幕が出るようになると、もっと深刻だろう。反面、幼児にテレビを見せておくと言葉と一緒にひらがなや漢字まで覚えてくれるだろうか。
生放送なら、当然字幕は入れられない。それに、録画編集だと長い収録時間のうちテンションの高い部分だけをつぎはぎしてあって、濃密すぎて見ていて疲れる。概して音楽や物語は、盛り上がるところと冗長な部分のバランスによって、全体が引き立つ面があるのではないか。果たして、収録時間中に起きた面白い場面を全部詰め込みさえすれば良いのか。生番組なら、そういうことがない。
イヤなら見なければいいだろう、と言うかも知れないが、そういうことではない。字幕さえ出なければ見たいのに、というケースもある。だから、字幕を出さないで欲しいと言いたいのだ。
追記(2005.1.9)
「欽ちゃんの仮装大賞」までもが字幕のオンパレードだった。まるでカラオケのようだった。しゃべるにせりふのスピードに合わせて字幕が展開される。
2チャンネルには、「テロップうざい」というスレッドまで立っている。私が述べたことを感じている人も多い裏付けである。
テレビ番組制作に関わっている人々のレベルが低いか、彼らが視聴者のレベルをあまりに低く見くびっているかのどちらかだろう。