「確信犯」も、非常に間違えられやすい言葉であると言えよう。悪いと分かっていてやることや、見つかったら逮捕されると知っていて行なう犯罪を「確信犯」というわけではない。概して犯罪とは、悪事と知っていながら行なうものである。もし「確信犯」がそのような意味なら、過失犯を別にすれば、「犯人」と「確信犯」とはほとんど同義ということになる。
「
役不足」や「
方法論」もそうなのだが、この手の言葉は、文脈なしで初めて聞いた場合に自然に推測するその言葉の意味が、本来の意味とだいぶ違う。それどころか、多くの場合「初めて聞いた言葉」と認識せず、意識の水面下で勝手にその意味を想像してしまいそうなくらい、自然な響きの単語だと言える。にもかかわらず、正しい意味は違う。言いかえれば「出来の悪い単語だ」ということでもある。
さて、「確信犯」というのは、「悪いと分かっててすること」ではない。「確信犯」は政治的・宗教的・思想的な信念に基づいて行われる犯罪を指す言葉だ。つまり、むしろ「正しいと信じてやる」犯罪を指すのである。「悪いと分かっていながら」という状況は、「確信」よりも「認識」「故意」という言葉に近い。そもそも「確信」という言葉自体が「信念」に通ずる意味を持っており、万引きを確信犯と呼ぶような誤用は、「確信犯」という言葉だけでなく「確信」という言葉に対してすら失礼である。
では「優れた音楽は、著作権にとらわれず広く頒布するべきだという信念でmp3をゲットすること」は「確信犯」だろうか? 否である。確信犯とは、自分の利益のためにいいわけを付ける小さな存在を指すのではない。確固たる信念に基づいて、ゆくゆくは世の中のために良かれと思って事を成す、もっとレベルの高い存在だ。NapsterやWinMX、ファイルローグといった「ファイル交換ソフト」を作成して頒布している人たちこそ、確信犯に近いだろう。(但し、私は無罪という見解をとる)
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