テレビ番組でのヤラセや捏造に対し、制作者サイドが「演出の範囲」という言葉で正当化しようとするのを聞くことがある。「演出」という言葉は、私の手元の辞書とネット上の辞書を調べると、大体次のように説明されている。
映画や演劇などで、装置・音楽・衣装・演技などを統合して効果を得ること
まずもって、バラエティ番組やドキュメンタリー番組は、映画や演劇ではない。しかし、そこは目をつぶろう。これらのテレビ番組を演劇になぞらえたメタファーと解釈することも可能だし、転用だという解釈もできる。
問題は、「ヤラセ」とは「ヤラセである」ことがバレないように行なうものであることだ。脚本通りの虚構を、まるで偶然・自然に起こった現象のように、あるいは、ある人が自発的に取った行動であるかのように見せるのである。これは、演出とは言えない。
演出は、「なるべく演出であることがバレないようにする」という性質のものではないのは明らかだ。優れた演出とは、そもそも全体が虚構であることに対しては承知の上で見ていて、その上で「大した演出だ」と見る者を感心させるものなのである。
従って、全体がフィクションであったり、要所要所にフィクションの要素が散りばめられていることを見る者が認識していない限り、「演出」という言葉は不適当である。バラエティ番組やドキュメンタリー番組などで「ヤラセ」や「捏造」が問題となるようなケースでは、視聴者がそれを事実と誤認して当然のような流れの場合ばかりである。
手品を手品として見せるのは「演出の範囲」であるが、手品を超能力と誤認させて見せるのは捏造である。受け手がどのように受け止めているかというのは、重要な要素である。
よって、「演出の範囲」であるかどうかというよりも、視聴者がそれを「演出だ」と分かるかどうかがポイントなのである。多くの視聴者が「演出だ」と分からないような作りであれば、それは演出とは呼べない。捏造と呼ぶべきなのである。
【免責】このページは、筆者の考えで構成されているものに過ぎません。筆者は国語の専門家ではないこと、記述の正当性は何ら検証されていないこと、記述を参考にしたり転用したりした結果について責任を持てないことをお断りしておきます。