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この前、会社の先輩の家に招かれ、遊びに行ってきました。立派なお宅、キレイな奥様、かわいく利発な子どもたち、クルマはおっきなビーエム。羨ましい限りという感じでした。
それはそれは。しかし、うらやましがられて得をすることなど、何もないのだ。なのにどうして人は、自慢などするのだろうか。
相手を羨ましがってあげれば、好感度は上がって、味方も増えるだろう。だが、人を羨ましがらせれば、それだけ好感度は下がって、味方も減るに違いない。
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別にその先輩は、自慢してなんかいません。私が勝手にうらやましがってるだけです。
別におもてだって自慢なんかしなくても、その人の境遇そのものが十分羨望の的で、そのために損することだってあるだろう。羨みの先には妬みがあると心得て、自慢する・しないに関わらず、なるべく地味に生きていた方が良いということだ。
そう考えれば、ブランドや高価なものは身につけない。クルマは小さくてポンコツに限る。そして、地味で他人にはとても取り柄の分からないような配偶者と、狭くて汚い家に住み暮らすに越したことはない。
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私はイヤですが……。
女であれば、減量や美容もほどほどにした方がよいし、人に羨ましがられるような体型や美貌は、考えものだ。美貌というのは、対異性では、大いに意味がある。だが、対同性で考えたら、決して良いものではない。もちろん醜悪は良くないが、容姿は普通程度がよい。
大体、この世に、おばさんの脚線美ほど無駄なものはないのだ。もはや異性を引きつける力はないのに、同年代同性の仲間だけ羨ませることになる。その負の効果は、さっきから言っている通りだ。
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いいんですか、そんなこと言って。
だから、自慢できるような何かを得る代わりに、自慢されなくたって「すごいね」「いいなぁ」と、嫌味なく繰り返せるような人になる方が得なのである。