植草一秀氏によれば、当時は「容疑を認めればマスコミにはリークしない」などと執拗に警察に迫られ、認めてしまったのだということである。しかし、そのマスコミはこのニュースを騒ぎ立てた。氏が教授職を務める早稲田大学はすぐに解任した。テレビ番組も氏をレギュラーから外した。そして、個人的な性癖を暴露するなどプライバシーを全く無視した公判と報道がなされてきた。前科についても大きく報道されたが、ZAKZAKの記事によれば、氏はそれも当時の状況を次のように語っている。
「女性も私もウトウトしていた」。アソコに手がいったことには「ももに湿疹(しつしん)ができていて、2、3度かいただけ」。パンストタッチは「アタッシェケースをひざに載せて手で抱えていた。電車が揺れて、小指が女性に0.1秒触れた」。
さて、私はこの事件に非常に注目しているわけだが、植草一秀氏が無実の可能性は非常に高いと考えている。マスメディアはおもしろおかしく植草氏が悪いようにかき立てている。だが、植草氏が言っていることはどうにも筋が通っているのである。
では、なぜやってもいないのぞきで逮捕され、ここまで執拗に警察や検察にいじめ抜かれるのか。例によって以下すべて想像になるが、それでもこういう事態に発展するだけの説得力のあるストーリーを示してみたい。
元はといえばなんのことはない。一件は警察官の見間違えと勘違いによる逮捕だったのであろう。横浜駅から素行が怪しかったと警察官は言っている。だが、それも警察官の主観に過ぎない。それに、いかに怪しかろうとも犯罪に及んでいなければここで問題にすべきことではない。
私は、逮捕した警察官自身は、すでに自らの勘違いによる逮捕だったと心中では認めているのではないかと思う。何せ、「スカートの中を覗いているように見えた」という曖昧な記憶である。本人がこれだけ否認すれば、勘違いだったのではないかと自信がなくなってくるのが普通であろう。しかも、問題の「手鏡」は、かざしていたのではなくて、ポケットの中から出てきたのである。ポケットの手鏡がのぞきの証拠になるなど異常なことだ。ポケットとは、ものをしまうためにあるのだ。
この警察官が、自らの誤りだったことを認めて謝罪し、楽になりたい気持でいることは想像に難くない。あるいは自殺したいぐらいに苦しんでいる可能性もあるだろう。
だが、きっと組織はそうはいかないのである。もしこれだけ騒ぎになったものが「誤認逮捕だった」ということになると、今度はマスメディアが「警察の誤認逮捕」をテーマにいろいろと騒ぎ立てるだろう。元々誤認逮捕や冤罪は、それ自体で大きなテーマである。すると、「警察官の目撃の証拠能力」という警察権力を大きく支えているものに対し、見直し論が高まるのはおそらく避けられない。また、「自白調書への署名の強要の実態」も浮き彫りになるだろう。こういったことは、言うまでもなく彼ら「警察組織」というものにとって、非常に都合が悪い。警察権力を弱体化させる方向へ世論が動くのは必至であろう。
特に「警察官の目撃や証言の証拠能力」が普通人のそれと同じレベルに扱われるようになれば、ほとんどの交通違反は、司法の場に持ち込めば証拠不十分で無罪となるのではないだろうか。そんなことは警察が容認できるはずがない。
したがって、いかに件の警察官が「私は真実を言いたい」と思っても、組織がそれを許さないのである。上官にも「もうこの問題は、おまえ一人の問題ではない。余計なことを言ってはいかん。大変なことになるからな」と言われているのではないか。検察もまたそうである。もし無罪と言うことになるなら、検察は無罪の被疑者をあの手この手で有罪に持ち込むために、個人の性癖や前科まで暴露してきたことになる。
だから、この段階に及んでは、もはや真実などどうでも良い。「有罪」を「勝ち取る」まで、警察も検察もただただ組織の論理で突き動かされるのである。
こういう理屈から、誤認逮捕であっても警察が意固地になって、彼を陥れるだけの動機が十分あると考えられるのだ。特に、被疑者が有名人なだけに、世間が注目する。影響力が大きいのである。だからこそ、警察や検察は、警察権力の弱体化や見直しに波及することを恐れて躍起になるのである。
参考リンク:植草氏を応援するブログ
http://yuutama.exblog.jp/