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先生は、濃い味付けがお好みですね。
そうだな。薄味は、食べた気がせんで、酒のつまみにもならんと、好かん。
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しかし、薄味で、だしの風味などを生かした味付けこそ、日本人の繊細な味覚の象徴です。大切にしたいとは思わないのですか?
逆だ。
なんだか今の世の中の風潮は、まるで、味が濃いのを好む人は味音痴でけしからんと蔑む傾向すら感じ取れる。薄味好きが偉くて、濃い味が好きな人は下品だという、序列付けをされているかのようだ。単なる好みに過ぎないのに、薄味を押しつけられて偉そうな顔をされたのではたまらん。
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先生、和食は素材の味を大切にするのですから日本人としては当然です。先生は、素材そのものの味を楽しもうとは思わないのですか?
その屁理屈こそ、私が憤慨している最たるものだ。その説には、濃い味付けをすると素材の味が分からなくなるという誤った前提がある。しかし、それこそ味音痴の証拠だ。わしなど、味覚が繊細だからどんなに濃い味付けをしようとも、素材の味は分かる自信がある。
それに、食べ物に調味料をかけて食べるのは、地球上で人類だけなのだ。味付けもせずに肉や野菜を食べていたら、人類と他の霊長類・ほ乳類を隔てる大切な文明的要素を否定しているのも同然だ。
塩や醤油で味付けして食べることこそ、人間の英知と文明の象徴であり、誇らしいことではないか。犬猫の餌に、味付けはすまい。
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先生の方が、よほど屁理屈なのでは?
そんなことはない。偉そうにそんなことをいうやつは、マグロの刺身も醤油なしで食ったらいい。そんなもの、食えるか?
マグロの刺身は醤油をかけてこそおいしいし、醤油をかけたからといってマグロの良し悪しが分からなくなるようなことはない。
とにかく、味の濃さの好き嫌いに序列はない。それなのに、濃い味付けをして食べていると、味の分からない奴だと侮蔑されることこそが問題なのだ。