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しかし、飛鳥涼さんも悩んでいたんですね、「良い曲が作れない」と悩んで、覚醒剤に手を出した。
甘ったれたことを言っていてはいけない。作曲家が「良い曲が書けなくなる」のは当たり前のことなのだ。
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どういうことですか?
作曲家というのは、年々腕を上げて、どんどん良い曲が書けるようになるという性質のものではないからだ。そんな作曲家は聞いたことがない。
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それもそうですね。
例えば、陸上選手が、年齢と共に体力の衰えを感じ、若いときのように活躍できなくなり、いずれ引退する。これを受け入れることができない陸上選手は、失格だろう。「昔のように早く走れなくなった」といって麻薬に手を出していたら、全ての陸上選手は全盛期以降は薬に頼らざるを得なくなってしまう。
作曲家も、「良い曲が作れなくなった」ということは受け入れざるを得ないことで、そんなものは悩みのうちに入らないはずなのだ。
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でも、年と共に体力が衰えるのと違って、曲はかけても良いような気がしてしまいますが……
そんなことはない。その人の最高傑作は、別にその人の最後の曲であると限らないのは当然だからだ。むしろ、若いときに作ったものの方が、最高傑作でありやすい。
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確かに、そういうことが多い気はしますが、たまたまではないのですか?
たまたまではない。必然なのだ。
例えば、ラーメン屋の店主が、味のこだわりの追究して極め、自信の看板メニューで店が繁盛したとするだろう。そこへ、「じゃあまた次に、別の美味しいラーメンを作って下さい」と言われたらどうだろうか? 「いやいや、今出しているラーメンが私の理想であり最高傑作だ」と言いたくもなるだろう。しかし作曲家に課せられるのは、1年もしないうちに「また次の曲を作って下さい。前を超えるぐらいいい曲で、且つ、前とあんまり似てないやつでね」という無理難題な仕事の繰り返しなのである。
ラーメン屋のたとえで言えば、新作が、最初の「こだわりのラーメン」を超えるのは非常に難しい。曲もまた、そういうものなのだ。
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なるほど、過酷ですね。確かに薬物に手を出したくなる気持ちも理解できる気がします。
だから、必要なのは教育なのだ。
小学校の音楽の時間で、「皆さんの中に、もしかしたら、将来作曲家になる人がいるかもしれない。しかし、作曲家は、スポーツ選手と同じで、『以前のように良い仕事ができなくなる、良い曲が書けなくなる』という宿命です。それを最初から受け入れることができない人は、作曲家になってはいけません」と教えるべきだろう。
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小学校でですか!?
そうだ。
飛鳥涼だって、本人が良い曲が書けなくて悩んでいるときに、家族やチャゲなど周囲の人たちが、「良い曲が書けないって、当たり前だよそんなの。そんなことを受け入れられず悩んでいるなんて、作曲家失格だ」と諭してあげることが必要だったのだ。